門は、薬医門かもしれないが、時代を考えれば間違いなく高麗門であろう
薬医門とは、お寺などでよく見る門で、控え柱の上まですっぽりと屋根が覆うタイプの門
しかし、死角が多いなど、問題点があり、今よく見られる高麗門が誕生した
ここもおそらく高麗門があったのだろう
この門から桝形となり、さらに急な坂となる
この上に櫓門があったのだろう
櫓台は切込み接ぎ、右側の側面は打ち込み接ぎとなる
江戸城の内郭では初めて目にした打ち込み接ぎかもしれない
このくらいの精度でも切込み接ぎと言う場合もあるが、江戸城の場合、周りの精度が高すぎるので、あえて打ち込み接ぎとしておく
本丸、富士見櫓などを観察し、いよいよ天守台である
見ての通り、下の部分は地面に埋まっているのだろう
本来はもう少し高かったはず
江戸城の天守台は、白い石を使っており、全ての石を規格サイズに加工した間知石という物を使っている
上にある謎の雁木は、やはり、回廊のような物に囲まれていた跡っぽい
あまり天守閣には詳しくないので、そういうタイプの天守があると知らなかった
この外側の石垣に土塀をかけ、内側の土塁の上に天守が建っていたのだろう
やっと帰路につく
梅林坂の石垣ではついに、谷積みを見つけた
上の部分は布積みなのに、下の部分が谷積み
よって、修復でないことはわかる
だが、なぜそんな積み方をするのか、、、
下の土台を素早く作る必要があり、谷積みで作ったのち、重要な上の部分は後から布積みで足したのだろうか
最後は平川門
桝形の内側は全て雁木となり、堀の向こうの敵を向かい打てるようになっている
大手もそうだが、江戸城の雁木はかなり低い
戦いをそんなに意識しなくても良い時代だったからか、ここまで侵入される頃には準備万端になっているという自信なのか
土塀の控え柱まで漆喰で固めているあたりは、流石徳川といった感じ
これは江戸時代からこの形式だったはずよね??
これが最初にいっていた、高麗門である
冠木の上にのみ屋根があるので視界が少なく、敵の足場にもなりにくい
控え柱には、小さな屋根を付け、コノ字型になっている
門を開いたときには、控え柱の屋根に扉が収納され、濡れない便利設計となる
まあ、薬医門なら間違いなく濡れないのだが、、、
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